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「戯画化」されるほどキャラが立っている人、とマーラー音楽の話

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今日で仕事納めでした。マーラー音楽について、ゆるいブログ記事を書いてみます。


田村先生の発言をネタにした「インド耕太郎」アカウントが面白すぎて電車で吹いてしまいました。2年前、選挙のお手伝いをして先生の人柄を知っているため、これは個人的に超ツボです。


このように「戯画化」されるのって、それだけキャラが立っている証拠だと思います。文学だと「文体模写」なんて遊びがありますが、作風が立っていないとそもそも模写もできません(「やれやれ。」だけで村上春樹っぽくなるのとか)。


僕が敬愛するマーラーもまた、たくさんの風刺画が残されている、キャラ立ちしているアーティストです。


当時の音楽業界からはこのように映っていたようです。秩序や論理はないめちゃくちゃな音楽、といった感じですね。


恐らく交響曲第一番を風刺している絵。上の風刺画同様、動物たちが描かれています。こちらも要するに、当時からしたらめちゃくちゃに映っていたようです。


マーラーは作曲家に留まらず、指揮者としても活躍していましたが、その独特なスタイルもまた風刺画として残されています。体全体を使う、エネルギッシュな指揮だったそうで。


マーラーは当時、楽壇からは痛烈に批判もされていたそうです。大作曲家として名が残っている今となっては信じられない話ですが。


ソナタ形式の否定

とはいえ、マーラー自身の作風は、確かに批判を受けてもおかしくないものであることも事実です。

例えば、第四番の第一楽章は、ベートーヴェン以来の伝統となった「ソナタ形式(A→B→A、と主題が変わる)」を皮肉的に継ぎ接ぎで表現するなど、当時の楽壇から批判されてもおかしくないことを、しれっと挑戦していたりしています(こちらの動画9:45。劇的なB主題が終わり、伝統的な文法を無視してA主題が「途中」から強引に再現される。)。


様式化した交響曲の構成の否定

第六番では、再びベートーヴェン以来の交響曲の伝統であった「暗から明へ」という楽曲構成を逆転させる挑戦(「明から暗へ」)を行い、従来的な交響曲というスタイル自体を解体しようと試みています。

第六番第4楽章では、明るい世界へ向かおうとする旋律を、巨大なハンマーが打ち砕きます。伝統的な音楽を重視している人からしたら、こんな下品で、侮辱的で、わざとらしい「パフォーマンス」に最悪な気分になったことでしょう。


自己の戯画化

未完成の第十番では、浮気をされて別れたかつての妻、アルマに対する批判が交響曲の中に盛り込まれていると言われます。

交響曲第六番で妻に捧げたメロディが「悪女」を表す音楽的モチーフを伴い歪められていたり(9:20)、露骨に不協和音の中に妻の頭文字である「A(ラ)」の音が鳴り響いていたり(12:53)。これがために、マーラーの死後、かつての妻アルマは楽譜の公開を渋ったとか。



10番に至っては、他人に戯画化されるところか、自分の人生すら戯画化しているようにも見えます。それでいて10番は、素晴らしい愛の境地を描いているのが圧倒的です。楽曲の最後は2つの旋律が付かず離れず寄り添い、「死」を表す「十三」度の跳躍を経て、ため息のように沈んでいきます。僕があらゆる音楽の中でもっとも美しいと思うシーンです(19:45)。


と、少し話がそれてしまいましたが、戯画化されるということは、世の中と人の心にそれだけのインパクトを与えているということでもあるのでしょう。

今で言えば、自分のBotができるくらいになれば、それは素晴らしい影響を周囲に与えているということなのかも知れません。


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