賛否両論?イケダハヤトが物申す

「誰が言ったか」より「何を言ったか」を重視すべき、という甘え

スポンサーリンク

ネットで情報発信をしていますと、日々よくわからん方から絡まれます。面識もない人間からアホだのバカだの言われる日常。そういう声を無視していると、「イケダは口汚いことばのなかにある本質的な批判を見過ごしていて、人間的に未熟である」という批判をいただきます。今日はこのテーマについて考えてみましょう。


「誰が言ったか」より「何を言ったか」?

「イケダは口汚いことばのなかにある本質的な批判を見過ごしていて、人間的に未熟である」という批判の根底にあるのは、彼・彼女が「成熟した人間というのは、『誰が言ったか』ではなく『何を言ったか』で物事を判断できる」という価値観です。

「誰が言ったか」より「何を言ったか」を重視できるというのは、いかにも真っ当な人間のようですが、ぼくは最近、全然そんなことはないんじゃないかと考えるようになりました。


発言の価値というものは、「その人がこれまでどのような価値判断を下してきたか」という「歴史性」に依拠するものです。ぼくらは日常的には、「誰が言ったか」でその発言の価値を算出しているのです。

難しい話ではなく、たとえば「新入社員は三年の下積みをすべきだ」ということばを、本田宗一郎とか出口社長がいえば、なんだかその通りな気がします。

でも、どう見てもイケてないくたびれたおっさんが場末の居酒屋で同じことを言っていたら、何だか信用がおけないわけです。この人の言うとおりに下積みしていたら、こんなおっさんになってしまうんじゃないか、真面目に聞かない方がいいな、と。


本当に成熟した人間というのは、その人間のなかにある「歴史性」に目を向けることができる人です。「歴史性」は「文脈」といってもよいでしょう。むしろ、「何を言ったか」よりも、「誰が言ったか」を可能なかぎり正確に評価できる力が、成熟だと思うのですよ。


たとえば、ビッグイシューのお手伝いをするなかでは、ホームレスの方のお話を聞く機会があります。

彼らのことばや表情には、もはや「何を言っているか」なんてどうでもよくなるほどの「歴史性」があるんですよね。

「元ホームレス」の方が発するかぎりにおいては、「こんにちは」というひと言ですら、強烈な意味性を持ってしまうことに、ぼくはよく驚かされます。このとき、ぼくはほとんど無意識的に、彼らの歴史性に目を向けていると言えます。


未熟な人間というのは、その発言の背後にある「歴史性」を読みとることができません。視野が浅く、近視眼的なわけです。その背後にある無言・有言の時間から、メッセージを読みとることができない。

多くの匿名による意見が総じて「浅い」のは、まさにそこに歴史性(過去にどのような経験をして、価値判断をしていたか)が、読みとることができないからでしょう。その意見は、時間的な意味で、どうしたって「浅い」ものになってしまいます。


結局、「誰が言ったか」より「何を言ったか」を重視すべき、という意見は、自分の発言に責任を取ることができない人間の甘えた願望なのでしょう。

オレは自分が何ものであるかを明かしたくないし、間違っているかもしれないから、発言の責任も取りたくない。が、文句だけは言いたい。聞いてほしい。この世に影響を与えたい。

「「誰が言ったか」より「何を言ったか」を重視すべき」というのは、そういう立場からこそ、発せられるものです。


もっといえば、人間が行う限りにおいて、そもそも「「誰が言ったか」より「何を言ったか」を重視する」なんてことは、実現不可能かつ、時間の無駄だと思うんですよね。

人間が判断する限り、確実にバイアスが掛かります。それを取り去ることはできまえん。

また、全ての意見を聞くことで何か貴重な洞察が得られるともかぎりません。ぼくの経験上、ツイッターで寄せられるよく知らない人の批判的意見は、冷静にその価値を評価しても、大した意味がないことがほとんどですね。

徹底的に「「誰が言ったか」より「何を言ったか」を重視する」人は、自分の人生を無駄にして終わると思いますよ(ビッグデータ的に機械の力で処理する、というのは面白いと思います)。


さて、みなさんは「「誰が言ったか」より「何を言ったか」を重視すべき」という主張に対して、どのようなご意見を抱きますか?ぜひコメント欄で教えてください。


スポンサーリンク