賛否両論?イケダハヤトが物申す

ぼくらには法律を犯す自由がある

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ここら辺、わかりにくいようなのでブログで書いておきます。


人間は元来「自由」な存在

ぼくらには法律を犯す自由があります。

という言葉はいかにも反社会的ですが、これは否定しようがない事実です。この事実を見逃した上で「法律は守って当然だ!」と語ることは、鈍感もいいところです。

法律は絶対ではありません。時には「罰を与えられること覚悟で」法に触れることもあるでしょう。

それはたとえば、昨日「『違法だから悪いこと』は本当なのか」で紹介した、菊田医師が起こした違法な「赤ちゃん斡旋」事件。Wikipediaより抜粋して紹介。

様々な事情から人工妊娠中絶を求める女性を説得して出産させる一方で、地元紙に「赤ちゃん斡旋」の広告を掲載し、生まれた赤ちゃんを子宝に恵まれない夫婦に無報酬で斡旋した。

1973年に告発される。出生証明書偽造で罰金20万円の略式命令、厚生省から6ヶ月の医療停止の行政処分を受ける。

しかし、この事件を契機に、人工妊娠中絶の可能期間が短縮され、1987年には養子を戸籍に実子と同様に記載するよう配慮した特別養子制度が新設された。

菊田昇 – Wikipedia

この場合、医師はまさに「法を犯す自由」を行使し、甘んじて罰を受け入れることとなりました。この事件が契機で法律は変わり、社会は一歩前進したといえます。


社会は無秩序にならない

こんな意見がありました。

いずれにせよ、この一文を読む限り、「犯罪者は自由を行使しただけ!みんな元来は自由!」と言っているとしか受け止められません。こういう留保のない自由の肯定は、「イケハヤを殺す自由」「イケハヤが殺されないように相手を殺す自由」などまで無条件に肯定することになり、社会に無秩序をもたらします。ぼくらが元来自由だと思い込むのはこのように様々な悪影響をもたらすわけです。

イケハヤ流究極の自由は「他人に殺される自由」を導くか – novtan別館

ぼくを殺すことは何人たりとも禁止できないので、その意味で、「ぼくを殺す自由」は誰しも所有しています。これをお読みのあなたも、ぼくを殺すことはできます。逆に、あなたをぼくが殺すこともできます。もちろん殺人をした際には、罰は受けます。肯定というか、事実として、そういう自由すらも存在するのがこの社会です。


この方は「法を犯す自由」を人々が肯定することで、社会に無秩序が発生すると考えているようです。ぼくはそうではなく、むしろ「ぼくらには法を犯す自由すらも与えられている」と考えた方が、社会は安定的になるとすら考えます(「法律なんていらない」と言っているわけではありません。法律があることは前提です)。


たとえば、ぼくは「自分には法を犯す自由がある」と考えていますが、だからといって、人を殺してもよいと考えているわけではありません。ついでにいえば、法律で禁止されていない「自殺」も、よいことだとは思いません。

ぼくにとって善いこと/悪いことの判断軸は、法律とは基本的に無縁のものです。とはいえ、ぼくにとって「悪いこと」の大部分は、社会的に法律で罰せられるようになってはいますが。

法律というのは、人々の善悪感覚を後追いしていることを忘れてはいけません。「国家が殺人を禁止している」のではなく、「市民の大半が殺人は悪いことだと考えるから、国家というシステムによって殺人が禁止されている」のが正しい記述です。


「ぼくらには法律を犯す自由がある」という視点をもてば、法律を絶対視することはなくなります。より根源的な、自分の善悪感覚に根ざして、ものごとを判断できるようになります。「法律で決まっているから悪い」という思考停止状態から、逃れることができます。

多くの人が思考停止から解放されれば、人々は自律的に善悪を判断するようになります。もちろん法律は相変わらず存在するので、法を犯した際は罰を受けることになります。

イメージ的には、菊田医師のような人が増えていく社会ですね。「自分の信念と善悪感覚に基づいて行動し、ときには罰を覚悟で法に触れる」人たちが増えていく、そんな未来です。


このような社会においては、人々が善悪感覚を十分に陶冶することが求められます。それはすなわち、社会に存在する人々の多様性を認め、異なった利害の人々と議論をしていくことでしょう。いわゆる熟議民主主義の実践などは、それに近いものだと思います。なんだかサンデル先生みたいになってきました。


まとめ

まとまりがなくなりつつあるので一旦締めますと、

・ぼくらには法律を犯す自由があります。あなたは、ぼくを殺す自由すら、元来持っている。
・それを行使した際には、もちろん罰を受けます。逃れることはできません。
・法律は完ぺきではないので、ときには「法律を犯してでも、正しいことをする」こともある(菊田医師の事件など)。
・善悪感覚を法律という仕組みに依存するのではなく、個人レベルに引き寄せて、自他の行為の善悪を判断していくことが大切。
・人々が健全な善悪感覚を陶冶できるような態度、制度づくりも求められるだろう。

なんてところですかね。総じていえば、ぼくは人間の良心の可能性をけっこう信じています。


関連本はこちらを挙げておきましょう。これからの社会をつくるヒントがいただけます。

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