賛否両論?イケダハヤトが物申す

「好き嫌い」ではなく「善悪」を語る、ずるい人たち

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インターネットの世界では、「好き嫌い」ではなく「善悪」で物事を語ろうとする人たちが溢れています。


お前が嫌いだ vs お前は間違っている

たとえばみなさんがぼくのことを「なんかコイツ気に食わない」と考えて、攻撃してやろうという気分になったとき、どういうことばを発するでしょうか?

そういうとき、多くの人は「イケダハヤトは”間違っている”」と語ろうとします。「わたしはイケダハヤトが”嫌い”だ」ではなく。


ささいな違いのように思えますが、これは大きな違いです。

「間違っている」と語るとき、その人は「個人的な好き嫌い」の域を超えて、相手を「悪」として断罪しています。「あいつは間違った存在だから、許してはいけない」という排除意識、または相手を変えようとする意識が、ここには見られます。

一方で、「嫌いだ」と語るときには、そのような意識は見られません。あくまで個人として嫌いなのであって、あいつの存在を「間違ったもの」としては捉えない、という態度です。


たとえば、アーティストを評価する場面などにも、この違いは見られます。

ぼくは最近の「ゆず」の作風があまり好きではないのですが、だからといって、彼らが「間違っている」とは思いません。彼らの表現が、たまたまぼくの好みに合致していないだけの話で、彼らは変わるべきだとも思わないし、ましてや彼らを変えようとも思いません(ちなみに、初期の「ゆず」は大好きです)。

一方で、一部の狂信的なファンは「最近のゆずの作風は”間違っている”!」と断罪するでしょう。彼、彼女は新しい作風を「悪」だと捉え、善かったときに戻ってもらいたい、と考えているわけですね。相手をコントロールしようとしている、とも言えます。


世界に対して健全な認識を持っていれば、この種の傲慢に陥ることはありません。あくまで自分は自分で、他人は他人だからです。

しっかりとした自己を持っている人は、他人をコントロールしようとはしませんし、他人に過度に干渉することはありません。また、賢明な人は、傲慢に陥ることを避けるため、何かについて「おまえ間違っている=自分は正しい」と主張することについて、自然と慎重になります。


毎度の引用になりますが、中島義道氏も次のように述べています。


無論、善悪を語らなければいけない瞬間も、人生においては出てきます。

最近だと、ぼくは切込隊長の「人を笑い者にする」という攻撃的な行為を、「悪」だと断罪しています。ここには相応の覚悟があります。

「イナゴの王」やまもといちろう氏との対談を終えて

ただし、善悪を語るということは、諸刃の剣の振るう行為であることを忘れてはいけません。少なくとも傲慢に陥っているのは間違いなく、さらに、自分が正しくない可能性もあります。


「個人」を出さず、「社会」の隠れ蓑に逃げるずるさ

ではなぜ人は「好き嫌い」ではなく「善悪(お前は間違っている)」を語るのでしょうか。

それは、結局彼らが「個人」をさらけ出すことを恐れているからなのでしょう。


意外なことに、「好き嫌い」を語ることは、「善悪」を語るよりも、ときにむずかしいです。

たとえば賛否両論ある人物を評するとき、その人のことがどんなに好きであっても、つい周りの目を気にして、口を噤んでしまうことがあります。

たとえばみなさんがイケダハヤトのことを好きでも、ぼくが非難囂々状態のときには、大手を切って「わたしはそれでもイケダハヤトが好きです」とは言いにくいわけです。それを言ってしまうと、周りの目が痛いですから。


また、「お前は間違っている」ということばの裏には、「個人」の枠を超えて、「社会」という視点が内包されます。「お前は間違っている」と語る人は、「社会的に見たら、お前の存在は悪だ」という、超越的な視点に立っているということです。

たとえば「上司が嫌い」であるとき、みなさんはつい「上司はこの会社の害悪で、間違った存在だ」と断罪してしまいそうになるでしょう。

実は個人的な感情にすぎないかもしれないのに、それを精査することなく、無意識的に「社会(会社)」という隠れ蓑のなかから、攻撃を加えようとしてしまいます。

本来なら、上司に対して「私はぶっちゃけあなたが嫌いです。あなたと一緒に仕事をするのが辛いので、配置を変えてください」と直接頼み込むべきです。

しかし、つい人は「私は上司が間違っていると思う。あの人配置転換してくれないかな…」と、個人対個人として戦うことを恐れてしまうわけですね。事情はあるとしても、これは軟弱で、卑怯な態度です。


ぼくを「嫌い」と罵りましょう

というわけで、みなさんは「イケダハヤトは間違っている」と語るとき、自分の傲慢さにぜひ気づいてください。みなさんはそれほど正しくないかもしれません。

もしもそのことばが傲慢に過ぎると思ったら、「わたしはイケダハヤトが嫌いだ」ということばにぜひ改めて下さい。こちらは率直で、美しさすら感じることばです。

どうしても「イケダハヤトのやり方は間違っている。社会的に悪だ」と思うのなら、ぜひそれは覚悟をもって発言してください。ぼくは間違ったことをしているつもりはないので、ぜひ何が正しいのか、対話して答えを見つけていきましょう。


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「嫌いだ!」ということばを取り戻すためには、こちらが良薬となるでしょう。

この本の中にも「良い悪いではなく、好き嫌いを語れ」という一節があります。勇気をもらえる一冊です。


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