賛否両論?イケダハヤトが物申す

愛のムチは要りません

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先週のイベントについて、徳力さんがありがたいまとめを書いてくれてます。ホントに徳力さんは、お名前のとおり徳がある方ですね。神様、仏様、徳力様です。

[徳力]やまもといちろう×イケダハヤト対談イベントのお礼と寄付方針等のご報告 #ブログ論争

 

だが、愛のムチは要らない

しかし!恩知らずにも気になることがあるので、それは明らかにしておきましょう。ここで空気を読んで黙り込むのもずるいですから。

察するに、多くのアンチイケダハヤトの方々は、今回の対談でやまもとさんが一方的にイケダさんをやり込めて天誅をくだす、という展開を期待されていたようですが、やまもとさんのプレゼン聞いてもらえれば分かるように、あれは、ある意味やまもとさんの愛なんですよね。

もう少し文章の書き方気を使えば、こんなにアンチの人たち怒らせずにすむでしょ、とか、もう少し論理的に考えれば、余計なトラブル避けられるでしょ、とか。

[徳力]やまもといちろう×イケダハヤト対談イベントのお礼と寄付方針等のご報告 #ブログ論争

やまもとさんはプレゼンのなかでも「愛」ということばを使ってましたが、正直、余計なお世話です。そんな愛のムチなんて気持ちわるいものは、丁重に新聞紙で包んでお返しいたします。

 

愛のムチの「ずるさ」

というのも、「愛のムチ」というのは、構造的にずるいものだからです。このことについては、何度もこのブログで論じてきましたが、改めて。

要するに「愛のムチ」は、「お前のためを思って言っているんだ」というヤツなんですね。もはやパターン化してますが、ちょっと長いですが、中島義道氏を引用しましょう。

「おまえのためを思って言ってるんだぞ!」

ああ、この言葉はとりわけ虫酸が走るほど嫌いです。それは嘘だからであり、自分を守っているからであり、恩を着せているからであり、愛情を注いでいるとかんちがいしているからであり、つまり徹底的に鈍感でしかも狡いからです。
(中略)
こうした台詞は、常識的な価値観にがんじがらめに縛られている人から発せられることが多い。そんな無作法な態度では世間に出てからうまくいくはずがない。そんな自分勝手では人とぶつかるに違いない。今、勉強しなければあとで後悔するのだ。とかとか。
(中略)
「自分のために」、おまえにどうにか変わってもらいたい。つまり、もっと世間並みになり、世間の掟を尊重し、その枠の中に収まって欲しいのです。そうでなければ、「自分が」不安で不安でしかたない。
(中略)
ここには、そう語る当人が気づいていないたいへん傲慢な態度がある。つまり、そう語る人は「おまえのために」言ってやるその相手より人間として絶対的に上位にいるという傲慢です。(中略)おまえは低級人種だからおれが言って聴かせなければわからないが、おれは高級人種だからおまえなんぞに言われたくない、というわけ。
(中略)
「おれもほんとうはこんなこと言いたくないんだ。おれも辛いんだ。だがな、おまえから憎まれてもおまえのためを思って、これだけは言っておきたいんだ」とじゅんじゅんと教え諭す。こうして、あとから私や第三者から非難されたら、自分はすべて善意からしたのだという巧妙な逃げ道を作っておく。その自己防衛の巧みさ、つまりその根性の薄汚さが厭なのです。

あえて付記するとすれば、「お前のために言っているんだ!」という愛のムチを拒絶すると、その行いをもって「あいつは年長者の言うことを聞かない不届きものだ」という批判が発生する、その構図も狡いですね。

日本社会では、どれだけ理不尽でも、愛のムチに打たれた若者は、それを甘受するしかないのです。「部長の愛のムチ」に対して「は?大きなお世話です」と切り返したら、組織から総スカンを喰らう、というとわかりやすいでしょうか。結局黙って「ご指導ご鞭撻ありがとうございますほにゃらら〜」と、心にもないお礼を言わなければいけないのです。あー、いやだいやだ…。

ぼくは何を言われようが気にしませんので、こういうことを言ってしまいますが、やまもとさんの「愛のムチ」は不要です。愛なんて気持ちわるいものに包まず、純粋に「おまえのここがおかしい」と言ってくれた方が、よっぽど気持ちいいです。ぼくは対等な気持ちでやってるんですけどね。

 

で、こういうことを書くと、「イケダハヤトはなんて生意気なんだ!」という批判が来るわけですね。もはや伝統芸能です。

 

本当の包容力とは何か?

たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない?」という記事に対する反応がなかなか面白くて、ぼくに対して「もっと生きやすくなるよう」実に親身なアドバイスをくれる方もいらっしゃいました。わざわざぼくに対してアドバイスのブログ記事を書いてくれる人まで…笑

 

そうした意見を簡単に要約すると、「イケダさんの言い分もよーく分かるけど、それは若い人はみんな通る道だよ。わたしもそうだった。あなたも乗り越えられるはず。もっと生きやすくなるために、こうした方がいいですよ」みたいな感じです。

 

この手の人が厄介なのは、ぼくのことを「ある程度」認めてくれていることです。その上で、アドバイスを提供してくれています。あぁ、なんて善い人なのでしょう。

 

が、ぼくはこの手の「教導」に嫌悪感を抱きます。なぜなら、彼・彼女は婉曲的に、自分の正しさをぼくに対して押しつけているからです。少なくとも、アドバイスを提供する自分が間違っているとは、微塵も思っていません。

 

たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない?」と語るぼくに対して、「若者はみんな通る道だよ」風の善意のアドバイスを提供する彼らは、基本的にぼくのことを「未熟な」人間だと考えているわけです。

言い換えれば、彼らは「乗り越えた者」として、絶対的な上位に立って、アドバイスを提供しているということです。その傲慢さに、彼らは気づいているのでしょうか。

 

子育てをしていて、また大学で授業をしていて、ぼくは自分が「乗り越えた者」としての正しさを、彼らに押しつけないようにしたいと考えています。

自分の正しさは絶対ではありません。どれだけ正論に即していても、常識的でも、必ずしもそれが当人にとって正しいわけではありません。現に、「挨拶はできるべきだ」という正しさは、ぼくにとっては正しくありません。「たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない?」という考えは、まぁ死ぬまで変わらないでしょう。

生徒や子どもが「未熟」に見えたときは、自分の傲慢さに気づくべき瞬間でもあります。善意のアドバイスであれ、固有の正義を押しつけることは、その人の創造性や自律性の発達を、阻害することにもなりますから。何が正しいかは、自分の体をもって学んでいくべきです。

 

世間的には、ぼくのような人間を「ある程度」理解し、それでいて善意のアドバイスを提供するような人を、「包容力がある人間」と呼ぶ傾向があるように感じます。

逆なんです。頼まれていもいないのに「善意のアドバイス」を提供する時点で、その人は包容力のかけらもありません。

だって、ありのままの姿を認めてくれていないわけですから。むしろ「お、イケダハヤトがなんかまたやってるなぁ…知らんけど」と横目でスルーしてくれる人の方が、包容力に長けています。

 

本当に包容力のある人というのは、その人の存在を、ありのまま受け入れられる人です。どれだけ自分の価値観や正義感に反しようが、その人を「変えることなく」、共存の道を模索できる人たちです。

 

かなりの理想論であることは承知していますが、ぼくはこの道を実践していくつもりです。ゼミに集まってくれた生徒たちには、ぼくの正しさは一切押しつけません。難しいですが、もちろん自分の娘にも。

求められればアドバイスも、彼らのために意見も言いますが、ぼくは誰かを、自分が望むように変えようとはしたくありません。

 

もっともっと噛み砕いてわかりやすくいえば、「善意のアドバイス」なるものは、基本的に「余計なお世話」なのです。

その根底にあるのは、「相手より自分が優れている」という傲慢であり、相手を変えようとするコントロール欲求です。それに気づかず、いけしゃあしゃあと「愛のムチ」を振りかざす人に、ぼくは心底辟易します。ご理解いただけましたでしょうか。

 

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本当の包容力について説かれた名著です。めちゃくちゃ価値観揺さぶられました。

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少しでもこの記事に共感する人は、ぜひ読んでおくべき一冊です。読書メモはこちら

 

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