賛否両論?イケダハヤトが物申す

ノブレス・オブリージュと日本人

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「ノブレス・オブリージュ」という言葉をご存知でしょうか?

直訳すれば「貴族の義務」とでもなるでしょうか。格差社会において、社会的に上位に位置する人が「義務」として、弱者に対して施しをする精神を、一般に「ノブレス・オブリージュ」といいます。

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格差が広がれば、否が応でも「ノブレス・オブリージュ」が実装される

日本には「日本という国は平等である」という幻想がはびこっています。厳密にいえばどう考えても格差があるわけですが、ともすると「生活保護受給者は甘えているだけだ!」みたいな断罪がはびこります。

そういう人々は「日本は平等な国であるから、落ちぶれている奴らは努力が足りなかったのだ。自分は頑張ってきたから、落ちぶれていないんだ」という誤解を精神に備え付けています。

今まではそれでもよかったかもしれませんが、これから日本の格差が広がっていくにつれ、また、世界が狭くなっていくにつれ、そういった「この世は平等である」という幻想は崩壊していくと見られます。

 

実際、今の若い人たちと話していると、割とナチュラルにノブレス・オブリージュの思想を抱いていることに驚かされます。社会には格差があることを前提として捉えており、その上で「自分はたまたま恵まれて育った」と自認している。「だから」、私は社会に恵みを循環させる義務がある。そういうロジックで社会に向き合っているのです、ごくごく素直に。

そういう人は、弱い人から見ると、実に傲慢に映ります。「恵まれていることを自慢するな。本当に高貴な人は自慢はしない」という見当違いな批判も飛んでくることでしょう。弱い人たちは、自己愛の匂いに敏感です。ノブレス・オブリージュを実践する人たちは、自分が救おうとする、まさにその人たちから石を投げられるものです。

 

しかし、格差が強ければ、その反動としてノブレス・オブリージュは否が応でも社会に実装されていきます。「高貴なる」人々は、恵まれない人たちから「傲慢だ」「欺瞞だ」「余計なお世話だ」と非難されようとも、「そうするのが正しいから」という確信をもって、恵みの循環に与するでしょう。弱者からの攻撃が強ければ強いほど、その確信は高まっていくかもしれません。

ここで重要なのは、ノブレス・オブリージュを実践する人々が、「自分が今恵まれているのは『たまたま』である」という自覚を持ちつづけることです。どれだけ社会的に恵まれていても、人生には不運が付きまといます。運悪く事故に遭って働くことができなくなること、病気にかかって寝たきりになること、最悪死ぬこと、すべて、誰もが否定することができません。

ノブレス・オブリージュを実践する人々は、そういう未来を自分ごととして捉え、「自分のために」恵みを循環させます。大きな恵みの循環をつくっておけば、いざ自分が没落した時のセーフティネットになるからです。

 

長い目で見れば日本にノブレス・オブリージュが実装されていくのは、火を見るより明らかです。実際に、若者たちの価値観は変わりつつあります。この変化が促進されれば、この国はそれだけサステナブルになるでしょう。恵みが高速で循環していく社会になるわけですから。

 

「私は恵まれている」と宣言しよう

「自分は恵まれている」という自覚を持つ人は、積極的にそのことを公言し、その上で「恵み」の循環に関わるべきだとぼくは考えています。

イナゴの王様が戸惑っていることは象徴的で、「私は恵まれている」という宣言は、多くの人々にとって嫌悪感、戸惑いを与えるものです。しかし、それは貴重で、意義のある宣言です。日本では明示的に語られてこなかったことですから。

 

あなたは「恵まれている」という自覚がありますか?もしも恵まれていないとしたら、そのことは正確に把握すべきです。

ブラック企業で働いているのに、「いや、私は働けているだけ、これでもすごく恵まれているんだ…」という強がりは、自己破壊的です。自分が恵まれていないことを、恥じずに、正確に把握してください。そうすれば、自分の環境を変えるきっかけを掴みやすくなります。

恵まれていないことを恥じる必要はありません。恵まれているかどうかなんてのは、その人の人間的な資質とまったく関係がない話なのです。運の問題です。人生ゲームのさいころを振って6ばかり出る人もいれば、1ばかり出て前に進めない人もいます。そこに人間的な違いはありません。単に、運の問題。

 

もしも恵まれているというのなら、恵みの循環にあなたも積極的に参加してください。そしてできれば、その意志を表明してください。そう語ることで非難も受けるでしょうけれど、あなたの言葉は、恵みの循環を加速させる力となります。

 

実母が生活保護を受けていたから市議を辞職

日々生きていて、金銭的、精神的な格差って広がる一方なんだなぁ、と感じています。子育て世帯はますます生活苦になっている、なんて調査もあったりして、子育てを控えている僕も戦々恐々としてます。

ニュースで、実母が在職中に生活保護を受けていたことを理由に、徳島県の市議が「責任」を取って辞職したことが話題になりました。東京に住む一人の若者からすれば明らかに過剰反応で、社会的に悪影響すらあると思ってしまいますが、きっと地方特有の事情があるのかもしれません。

 

それとも、ある意味で「男気を見せた」のでしょうか。もしそうなら、考察に値すると僕は思います。この点について考えてみたいと思います。

 

先日読んだ「善人ほど悪い奴はいない」に掲載されていたニーチェの言葉に、こんなものがあります。

自分の正しさを主張して譲らないよりは、自分に不正を帰するほうが高貴である。自分が正しい場合にはとりわけそうだ。ただ、そうするに足るだけ豊かでなくてはならない。(「ツァラトゥストラ」)

これは推察でしかありませんが、岡氏は自身の正しさを認識しつつも、それを主張して譲らないよりも、自分の「責任」とする方が高貴であると判断し、辞職したのかもしれません。美醜の価値観でいえば、確かに美しさを感じる行為です。

自分は強者だから不条理でも責任を取る、というマインドは「ノブレス・オブリージュ」の一種ともいえるものだと思います。

(ただ、今回の行為に関しては、生活保護への偏見を強化しかねないため、僕は評価できないと考えます)

 

強者が背負うべき責任とは?

「自由に生きる」という論調が最近盛んです。僕自身もそうありたく願っています。

しかし、そういう自由を獲得した「強者」たちは、「弱者」に対して何もしないでも良いのでしょうか?自分が幸せに生きていれば、「免罪符」として税金さえ納めていれば、それで本当にいいのでしょうか。

僕のように、自由に動けている「強者」サイドに属する人間は、「弱者」と感じられる人々に対して、何かコミットしなければいけないのではないでしょうか。

僕は大してお金もありませんし、自由なのは「今」だけかもしれませんが、何か、そういう道徳的な責任にも駆られてしまうのです。

 

それは自分を「強者」として認識したい、「いいひと」でありたいがための欺瞞かもしれません。ですが、僕の中では、評価とか賞賛ではなく、もっとこの社会に対する、自発的な責任感が根本にあるように感じます。

また、僕自身も違う観点からすれば「弱者」かもしれません。実際、どちらかといえば貧乏に属する方です。でも、僕はオンライン上で影響力があるという意味では「強者」です。一つの軸で評価するのは困難なのでしょう。

 

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