哲学エンターテイメントとも言うべき、飲茶氏の書籍。こちらは科学を扱った一冊です。面白かったので読書メモを残しておきます。





科学の限界に迫る





・不完全性定理は述べる「どんな理論体系にも、証明不可能な命題(パラドックス)が必ず存在する。それは、その理論体系に矛盾がないことをその理論体系の中で決して証明できないということであり、つまり、おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない」

・非ユークリッド幾何学の発見によって、理論体系の無矛盾性が、公理の「正当性」を表すことにはならず、まったく別の公理に置き換えたとしても、何ら矛盾が起きないことが明らかになってしまった。

・言葉とは、客観的な根拠によって成り立っておらず「伝統的文化的に決められた生活様式というルール」を根拠として述べているにすぎない。このことをウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と表現した。

・「人間は、たとえ物理現象を完全に解明したとしても、初期値を完全に観測できないので、決して未来を予測できません」。このカオス理論の結論は、「今、研究している現象について、どんどん法則性を解明していけば、いつかは、この現象を完全に予測することができるようになるはずだ」と思っていた、当時の科学者たちに大きな衝撃を与えた。

・量子力学の標準的な解釈(コペンハーゲン解釈)としては、以下の2つにまとめられる。「電子(物質)は、観測される前は波のような存在であるが、観測されると粒子になる」「観測される前の波とは、粒子がどこで観測されるかという確率を表している」

・結局、「2つのスリットを通ったのは何か」と問われれば、「電子が通ったのかもしれないという可能性だ」としか言えないのだ。むしろ、「電子は、絶対に一方のスリットしか通り抜けていない!だから一方のスリットだけを通り抜けたとして、この実験を考えるべきだ!」という方が、何の根拠もない。それどころか、そう考えてしまうと、干渉縞が発生するという事実を説明できない。

・現代科学では、観測する前の電子は、下図のように、モヤモヤした状態で存在しており、「位置Aにあるかもしれないし、位置Bにあるかもしれない、位置Cに…」というふうに、すべての可能性が重ね合わさって、同時に存在していると考えている。

・ノイマン博士は考えた。「えーと、まず、量子力学では、猫は『生きている/死んでいる』という状態が重なり合って、多重に存在している、と述べているんだよね。でも、その状態を確定させる要因が、量子力学、つまり物理学のどこにもない。それなのに、『人間』が観測したときにだけ、猫の状態は決まっている……(略)もしかしたら、人間の『ココロ』が『多重に存在していた猫の状態』を決めたのではないだろうか!?」

・ノイマン博士は「ココロ」や「イシキ」といった現代物理学では語れない何かが、可能性の決定を引き起こしている、と本気で主張したのである。

・「電子が多重に存在するなら、猫だって多重に存在するはずだ!」というシュレディンガーの猫の思考実験について、「だったら、それを見ている人間だって、多重に存在するはずだ!」と誰もが見落としていたことに、ひとりの学生が見事に気づいた。「見ている人間が、多重に存在する」ということは、「私がいる世界」が多重に存在しているということであり、それはつまり、「多世界」が存在しているという結論になる。

・多世界解釈には、3つの問題があった。
問題1)多世界なんて、日常的な感性では受け入れられない。
問題2)多世界があることを、観測によって証明できない
問題3)たくさん世界があるのに、「現に、今、この世界であること」を説明できない。

・現代において、科学とは「技術的に応用可能な理論を提供する道具体系」であり、科学ができることは「実験結果となるべくぴったり合う、ツジツマの合った理論体系を提供すること」だけなのだ。

・ポパーは「結局、このような疑いを乗り越えて、何らかの科学理論を構築するためには、どこかで疑いを止める地点を<決断>しなくてはならない」と述べた。



量子力学についての説明はかなりわかりやすかったです。他の入門書が読みにくかった方は、こちらを読むと、あーなるほど、と得心がいくはず。