<追記>どうやら失敗に終わったようです…。
















<追記>徳丸さんにすばらしいご指摘をいただきました(徳丸浩の雑記帳: イケダハヤトさんの『他人を批判するときにユーモアを使うのは「卑怯」です』の感想)。

仰るとおりで、ぼくのやり方が未熟でした。自分で忘れないためにも言い訳を残しておきますと、マジメに相手の意見を読み解いて「イケダハヤトちゃんに絡まれちゃったwww」と逃げられるのが嫌だったので、先に牽制してしまった、という心理です。反省しております。








見てますよ。




イケダハヤトを批判する湯本堅隆氏



「ござ先輩」というペンネームで活動しているエンジニアの湯本堅隆さんは、勤務先まで公開して、個人批判を展開しています(プロフィール)。これはかなり覚悟がある方のようですね。




湯本堅隆氏は、ぼくについてこんな不快な罵詈雑言を残しています(イケダハヤト氏の文章がなぜ不快なのかをまじめに考えた)。今年1月、隊長との騒動のときに便乗して書かれた記事ですね。あの頃はぼくも余裕がなかったので、スルーしていました。が、「見てるぅ~??」と言われたので、改めて物申しておきましょう。




流れについていけない読者のためにも、一部、彼の言葉を抜粋します。

・イケダハヤトちゃんのブログは全体的にものすごい拡大解釈が強い。わかってやっているのか全く自覚がないのか判断が難しいですが、極端に言えば単純バカのフルコースになっている。

・会社として仕事を請けて責任抱えて回してる方が、会社勤め時代にたいした成果もあげられずブログで本を薦めるだけで何の責任も負ってないイケダハヤトちゃんにまじめに突っ込んでも暖簾に腕押しになるんじゃないかなー。なんで好んで責任おわなあかんねんになるだろうし。

・イケダハヤトちゃんの文章はワイドショーとしては面白いんだけど、ドキュメンタリーとして語るべき内容に素人童貞が手を出すから現場で頑張ってる人にすごく反感を買っています。

・師の面の皮は100億シーベルトの放射線を浴びせても崩壊しない気がします。お見それしました。「朕 is God!朕 is God!朕 is God!朕はネ申なり!朕はネ申なり!朕はネ申なり!」

イケダハヤト氏の文章がなぜ不快なのかをまじめに考えた - GoTheDistance


あぁ気持ちわるい!正直申しまして鳥肌が立ちます。湯本堅隆氏の主張にまじめに反論してもいいのですが、先に問題にすべきは、この卑怯な態度です。これを正してもらわないと、お話になりません。




他人を批判するときにユーモアを使うのは「卑怯」です



湯本さん、あなた、他人を批判するときにユーモアに逃げるのは「卑怯」であることをわかっていますか?「他者批判の際にユーモアを使うことは卑怯である」、これはぼくの意見ではなく、論理的な帰結として「正しい」ことですよ。




説明しましょう。第一に、あなたがこうしてユーモアを用いることで、あなたは「俺ふざけて書いてるだけなのに、何本気にしちゃって怒ってるの?www」という「逃げ道」を用意できます。

事実、あなたはふざけているのでしょう。そしてぼくの追及それ自体も「ネタ」にするのでしょう(「いぇ~い!イケダハヤトちゃんに絡まれちゃったよ〜」)。まったくもって、ふざけています。あなたはいつでも逃げられる非常口の手前から人に石を投げていることに、気づいていますか。それは情けない態度ですよ。情けなくないと考えるのなら、その理由を教えて下さい。

また、その態度は、いじめっ子が用意する「俺は本気で死ねって言ったわけじゃない。「いじめ」じゃなくて「いじめ」だ。あいつが本気で受け取って自殺したんだ!俺は悪くない!」というロジックと全く同じです。あなたは冗談のつもりでしょうが、それをどう捉えるかは受け手側の問題です。そうではない、自分は悪くないと考えるのなら、その理由を教えて下さい。




第二に、ユーモアを用いることで、あなたの文章の攻撃性は高まります。

これに関しては、中島岳志さんの言葉が的確なので、引用しましょう。

「笑い」には人を麻痺させる瞬間があります。一気に共感させてしまう力と言うのかな。

(中略)これはテクニックとして使うと有効だけれど、ファシズム的に使うとヤバいなと思うことがあります。「笑い」には心をほぐすがゆえにコミットしすぎる部分があって、それが嘲笑の「嗤い」に持っていかれると非常に怖い。

「笑い」と「嗤い」は違う—ネットのユーモアにみる弱者の批判根性


切込み隊長の手法も同様ですが、ユーモアを取り入れることで、対象を「笑い者」に仕立て上げることができます。あなたの文章を読んだ人は、論理的思考を「麻痺」させられ、「単純バカのフルコースってwww」とイケダハヤトを嗤う。それはそのまま、ぼくに対する攻撃として機能する。これは議論とすら言えません。

冷静に考えていただければわかるとおり、他人に批判的意見を述べる際、相手を「嘲笑」するのは不誠実で、卑怯な態度です。会議の場で、自分が嗤われることをイメージしていただければよくわかるかと。正々堂々論理で闘えよ!と言いたくなるでしょう。




「嗤い」を使うのが許されることがあるとすれば、それは社会を変えるために、圧倒的な強者に立ち向かうときくらいのものです(チャップリンの「独裁者」が良い例です)。

「嗤い」というものは、根本的に立場の弱い人が使うべき論法なのです。あなたはしっかりと日本語を使って語れる人のようですし、そこまで弱い人間ではないはずですよ。逃げないでください。




もっとも、あなたがはじめからぼくを「批判」したいのではなく、単に「嘲笑」したい、というのなら、それはそれで構いません。自分自身の良心の鏡に照らし合わせて、その行為をつづけるか、やめるか判断して下さい。

「あなたのために忠告しておくけど」…というのも傲慢で嫌みったらしいですが、ぼくはオススメしませんけどね。積極的に他人を嘲笑するあなたは、必ず周囲の人から軽蔑されますよ。でも、それが自分の人生だと考えるのなら、ぼくはもはや止めません。




まとめましょう。

・ユーモアを使って他人を批判するのは「卑怯」である。
・第一に「俺はふざけているだけなのに、何本気になっちゃってるの??」という「逃げ道」を用意できるから。
・第二に、読者の論理的思考を麻痺させ、「嗤い」そのものを攻撃に転化できるから。


ぼくはふざけていません。ゆえに、逃げるつもりはありません。「他者批判をする際にユーモアを用いるのは卑怯である」ということが間違っていると思うのなら、ぜひ反論・意見をください。書きにくければ、「私がイケダハヤトをあざ笑う理由」でも構いません。ぼくはあなたの考えを知りたいです。

もちろんそれを書くときは、ぜひともユーモアに逃げず、真面目に対話していただくのが前提です。お互い対等な人間ですから。