ここら辺は誤解を招きがちなところなので、改めて文章にしておきます。



言論の自由と、発言の責任を取る覚悟



ぼくは言論の自由は大切だと考えています。

ゆえに、「死ね」やら「クズ」やら「消えろ」といった罵詈雑言も、その発言がもたらす結果の責任を取る「覚悟」があるのなら、発言すればいいと考えています。その上で、彼・彼女の行為を、法律、ないし社会が判断するだけですから。

これはヘイトスピーチを法的に規制するか、という話に通じますね。「韓国人は死ね!」と叫ぶ彼らが、その発言の責任を取る覚悟があるのなら、それもよいと思います。




問題なのは、死ねだのクズだの叫ぶ輩たちが、ほとんどの場合、十分な覚悟を持っていないことです。せめて対話くらいして欲しいものですが、ほとんど確実にスルーされるんですよね。例は出しませんが…。

結局ネットで罵詈雑言をつぶやき散らすほとんどの人間は、逃げ道を用意した上で、卑屈にも「死ね」だの「滅びよ」だの、発言しているわけです。いい加減、その情けない態度と行為に、ぼくは気づいてもらいたいのです。考えることから、逃げてはいけません。




発言の責任は100%取れない



「発言の責任を取る覚悟」と書きましたが、自分の発言の責任を100%取ることは不可能です。ここが難しい。

たとえば、ぼくのブログを読んで、誰かが自殺してしまったとき、ぼくはその責任を取ることはできません。だって、死んでしまったら取り返しが付かないじゃないですか。30%は責任を取ることができるかもしれませんが、100%は絶対に無理です。

これはぼくに限らない話で、「自分のことばが誰かを傷つけて、自殺にすら追いやる可能性がある」ことは、誰しも否定できません。みなさんがツイートする「あー、マジでうざい…」という一言が、みなさんの友達に届き、彼・彼女が「え、これひょっとして、自分のことかな…」と落ち込んだ末に精神を病んでしまう、なんて話はすでに起きている現実かもしれません。

発信者は誰かを殺してしまう可能性を否定できない。その責任を100%引き取ることはできない。だとしたら、できることは、理性を使って発言に「配慮」することです。自分のことばの暴力性を自覚し、その影響がもたらす責任を最大限取る努力をしましょう。

それは、発言の結果何が起ころうとも、それを「自分の責任だ」と考え、行動するということです。間違っても「死ねと書いたけど、本当に死ねと願っているわけじゃない。それなのに自殺したのは、自殺した人の責任だ」と語ってはいけない。




ただし、このバランスは難しくて、前述のように、事実として発信者が読者の行動の責任を100%取ることはできません。矛盾しているようですが。ぼくは「みなさんの人生の選択の責任は、ぼくには取れません」という記事も書いております。


「著者として最大限被害者(自殺者)が出ないように配慮するけど、読者の人生の選択は読者自身の問題なので、著者であるぼくはあなたの選択ミスの責任を引き受けることはできない。場合によってはなんらかのケアをするが、その約束はできない」





「配慮しよう」とはなんとも微妙な結論ですが、ぼくは考えつづけた結果、今のところ、こんな平凡な考えに至りました。




まとめましょう。

・言論の自由は大切だ。覚悟があるなら「死ね」「クズ」でも発言すればいい。
・問題は、覚悟なし、逃げ道を用意して人に罵詈雑言を飛ばす輩が多いこと。
・あなたの言葉で誰かが死ぬ可能性は、絶対に否定できない。だとしたら、自分の言葉の攻撃性には十分配慮する必要がある。





あくまで今は過渡期だと思うんですよね。「ネットイナゴ」を早く過去のものにしたいです。こういう文化は、子どもたちに残してはいけません。

このテーマはまだ考えつづける必要があるので、ぜひ意見がある方はメッセージをください。どういう振る舞いが正しいのか、まだ微妙にわからないんですよね…。