健全な批判ってなかなか難しいですよね。ぼくなりの批判の作法について書いてみます。





敬意を持つ



まず大原則として「敬意を持つ」。これは超大切です。

ぼくは年が若いからか、いきなり上から目線で絡んでくるオッサンに散々苛まされています。何ですかあれは。「イケダハヤトの将来が心配だ」とか言ってくる人もいます。面識もないのに。あんだ誰だよ…。正直に「イケダハヤトは生意気だから気に食わない」とでもいえばいいのに。変に人格を守る必要ないですよ、透けて見えますから。

…と、思わず毒を吐きたくなるくらい、ネット上には「敬意なき批判」が溢れています。アホとかバカとか未熟者だとか、まぁその手の罵詈雑言ですね。

批判をする際には、相手に対する敬意、リスペクトを持ちましょう。相手は、自分と対等な人格を持った人間です。無意識的にであれ、見下している/見下されているのなら、その時点で対話は成立しません。

なお、「敬意を持つ」ということと、「慇懃無礼」は違います。プロのもの書きを自称する人ですら、これをはき違えている人がいます。どれだけ丁寧な口調でも、相手をどこかで見下していたら、それは正統な批判にはなりえません。




未知の存在としての興味を持つ



もう一点大切なのは「興味」。

批判をするときにやってしまいがちなのは、相手を「わかったもの」として、あら探しのツッコミを入れるという愚劣な行為です。

これは持論ですが、健全な批判というものは、相手を陥れるためではなく、相手の発言のうち「わからないこと」を引き出すために行われるべきです。

たとえば、みなさんがぼくの文章を読んで、「何言ってるんだこの人、理解できない」と思ったとします。

みなさんがぼくを「未知の存在」として捉えてくれれば、ぼくのことばを最大限読み込んだ上で、「ここはどういう意味ですか?私には矛盾しているように思えるのですが、いかがでしょうか?」と「批判」します。ぼくに興味を持って、わからない部分を明らかにしようとしているわけですね。こういう批判には、ぼくは最大限回答します。




「批判」というか「誹謗中傷」は、そういった興味関心は皆無で、「こいつは所詮この程度だな。そもそも矛盾している。どれ、痛いところをつついてやるか」という、相手をすっかり理解したつもりで行われます。

特に彼らにとっては、「矛盾」は絶対悪であり、最大の攻撃理由になります。全能感に囚われた彼らは、表面的な矛盾の奥底にある洞察や真理に、思いを馳せることはありません。「矛盾している!はい論破!」。ゆえに、彼らの「批判」はお話にならないのです。




自覚と覚悟を持つ



最後のポイントは「自覚」と「覚悟」。これはセットですね。

批判するという行為は、それ自体非常に傲慢です。批判とは、自分の正しさを主張することであって、相手を「認めない」ことです。他者を傷つける可能性も孕んでいます。批判とは、行為自体が罪悪だといってもよいでしょう。

罪を犯せば、罰が与えられます。特段の例を挙げるまでもなく、むやみに「批判」を繰り出す人に対しては、周囲のコミュニティ、市場は冷徹な判断を下します。

批判者には、自分が罪を犯しているという自覚と、罪を甘んじて受け入れる覚悟が求められます。自覚と覚悟が欠如した批判は、効力を持ちえません。匿名アカウントの批判を真に受ける人がいないのは、この両方が欠けているからです。彼らは自覚も覚悟もなしに、他人に石を投げつけるだけの存在です。




敬意と興味と自覚と覚悟。この4つが欠如している批判は、ぼくはサクッとスルーします。またその逆に、自分が誰かを批判したくなったとき、この4つが欠如している場合には、口を噤みます。

たとえば、切込隊長に対する批判は、ぼくはこのすべてを抱いた上で行いました。ぼくは彼を対等な存在、未知の存在だと思っており、自覚と覚悟をもって批判しています。まぁ、彼は幾分ぼくを見下しているようですが、それはぼくの被害妄想かもしれません。

「イナゴの王」やまもといちろう氏との対談を終えて




最後に余談。

ぼくに絡んでくるネット有名人は実はそれなりにいるのですが、彼らについては意識的にスルーしています。お分かりの通り、ぼく自身が彼らに対して、上記の4つの気持ちをもつことができないからです。この状態で批判しあっても、不毛な戦いになるだけです。

特に多いのは、相手に対して敬意が持てないパターンですかね。ぼくは人間嫌いでストライクゾーンが狭いので、一度嫌いになるともうほとんどダメです。日々、人を軽蔑しながら生きております。

「なんでイケダハヤトはあの人を無視するんだ?」と疑問に思うことがあれば、それは彼らの存在が、ぼくの基準を満たしていないということなので、お察しくださいませ。