村上隆の著作に触れています。いやー、これは面白い!目から鱗がぼろぼろ落ちます。読書メモをご共有。





自由な野良犬、日本の芸術



・「芸術は貧しいものである」という正義に加えて、日本人の魂、戦争に負けてズタズタになった日本の精神を救ってくれるのは、日本画という「日本」と名のついた芸術である。そういうことを後ろ盾に、思想的に貧=芸術=正義を行う芸術が日本がということになりました。

・この正義感、「芸術とは何か」「芸術とは貧乏である」「貧乏は正しい」という構造。貧しさということが芸術と癒着してはなれない。だから、金儲けどころか、お金そのものに対する拒否反応がいまだにあるわけです。

・ローカリズムをやろうとしてぼくはフィギュアを作ることを発案し、とりあえずこれでブレイクしました。望まれていたのにそういう形で日本人や日本を表現してくれる日本人アーティストがいなかったからだと分析したからです。

・ピカソは生涯でおよそ絵画13,500点というものすごい枚数を描いた人ですが、一枚あたりに接した時間は非常に短い。ものすごい枚数を描きながら時代とともに変わり、その変化は有名なキュビズムの時期も含めて六つか七つくらいの時期に分けられます。

・抽象表現主義とは一言でいえば、「ピカソを倒せ!」というムーブメントです。ピカソの荒々しくて独創的な作品に打ち勝つにはどうしたらいいのだろうということがいろんな形で研究されました。

・なぜ日本の人たちが、現代美術が嫌い、現代美術がわからないと言うかというと、わざわざコンテクストを知的に理解しなければならないアートなんてアートではないと思っているからです。アートというものはそういう高尚ぶったお勉強のできる人の柚木ではなくて、誰にでもわかる="自由なもの"であるべきだと、皆思っているのですね。「アートは自由に理解するべきだ」これはほとんど信仰に近いものがあります。

・みなさんは「マンガはコンテクストなど理解せずに、自由に見て楽しめるからいい」と思っているかもしれませんが、実は外国人にとってマンガほどハイコンテクストで、ハードルの高い文法を持った芸術はありません。

・さきほど述べたように歴史が重層化しなくてはいけない。同じ日本人だったら狩野山雪あり金田伊功あり、日本の美術は実はマンガだよといった辻惟雄先生がいて、歴史が串刺しにならなければ現代美術ではないわけです。

・美大生は決してそれを理解しようとしません。彼らは「自由になりたい」のです。自由=アート。

・いってみれば戦後の日本人は、首輪をつけられないで育てられてしまった犬のようなものです。「自由」という名の野良犬が我々です。だから、社会という首輪をはめられてしまったらつらくて仕方がない。

・芸術でいちばんの大切なものは、構図、圧力、コンテクスト、個性の四つです。コンテクストというのはその作品が歴史、状況の中でどういう意味を重層的にもっているのかをいいます。それがたくさん串刺しになっている方がいいと説明しました。

・ぼくは、決してギブアップしません。今日の失敗はぼくの失敗ではないと思い込んで、もう一回やればリベンジできるのではないか。そういうネバーギブアップ精神で、次、もうちょっと良くなるにはどうするか。それを毎日毎日、毎日毎日繰り返す。それがぼくにとっての「圧力」です。

・かなり以前、ぼくが自分で学校みたいなものを作るということも考えたことがあります。けれど、日本人は一度お金を払ったら客であるという発想が強すぎて、「教育現場」を造れる大前提がセットされていないことを実感しています。その「客意識」は過剰といってもいい。だから、金を払っている大学生諸君は、お客さんなので学校に誠意を発揮されて当然だと思っている。お客さんである以上、すべての大学生はフラットに平等に扱われなければいけなくて、才能ある学生を捕まえて先生が才能を引き出したりするのは不公平なわけです。こんなことが当たり前になってしまっている環境で、学校をやりたいとは思わなくなりました。

・評論家の竹熊健太郎さんは、京都精華大学でマンガを教えてらっしゃいますが、竹熊さんは、お金をあげる学校をやろうと思っている、といわれています。それはウォルト・ディズニーが創業してすぐに作り出した学校と同じだと言います。給料をあげてその中で運営していく。今もピクサー・アニメーション・スタジオなんかにもありますよね。ピクサー・アカデミー。会社内に学校がある。それはぼくはありだと思います。

・昔だったら、パリやサロンというのがあって、カフェなどでもアーティスト同士が啓発しあったわけです。やはり、一個人でいけるところには限界があります。複数の人間で啓発しあわなければいけないと思います。

・アーティストが自分の芸術的なものを引っ張り出そうと思うのなら、どうか日本式自由神話から脱出してください。内向的な作品、私小説的な作品は絶対ダメです。

・A級かB級か勝負の分かれ目になるのは、①文脈の説明 ②理解者の創造 ③ネットワークの三つです。

・自由神話では大人が悪いとか、社会がダメだということになっています。彼らの仲間の中では時間を守らない、人の言うことを行けないという行為は世とされます。彼のやっていることこそが社会との戦いである。

・冷静に考えてみてください。とにかく無節操に自由でいたい。人の顔を潰そうが何をしようが自由がいちばん。社会構造を理解するより自由な立場を優先したい。しかし、うまい話にはのりたい。のっても、そのうまい話を自由気ままに好き勝手にやりたい。それはできない相談です。

・自分も数年間、ヒロポンファクトリーといいながら、反社会性を売り物に作品を作っていた時期がありました。手伝い常時50人、ボランティアだったし、法人にする意味がわかりませんでした。社長になって威張りたい人が会社を起業するのだと思っていました。しかし、そうではない。法人を設立することで、個人と社会を繋ぎ「自由」を創造するための折衝を行わねばならないのだと痛感したわけです。

・イギリスとアメリカのアートというのは政治的に造られたフシがあります。芸術というのは常に政治的なものです。

・芸呪というのは生き残った結果そのものです。生存確率の低い、しかし奇跡的に生き残った遺伝子を持ったものが芸術作品であり、芸術家です。それ以上でもそれ以下でもない。ぼくたち芸術家は美を社会に、歴史に刻印するためだけに生きています。たとえその美が社会の規範からズレていようが、美に足るか否かは未来への時間のみが査定していくだけです。

・芸術家の本懐は、「作品」が後世に残り、感動を未来人に与えることです。赤貧と無名と無理解に悩んだ作家が、たった一枚の「作品」を残す。そのたったひとつの奇跡のような珠玉の「作品」によって復活してくることがあります。

・「好きなことをやって食べていきたい」「職業作家になりたい」そういうことを考えるのなら芸術家になるのはあきらめた方がいい。なぜなら、貧困も無名も作品の輝きとは無関係だからです。


ビシバシ刺さります…特に若者と反社会性のあたりについては耳が痛いです。強制的に相対化されてしまった感じ。

コンテクストという概念はとても面白いです。ウェブの世界はコンテクストが異様に強いものですが、重層化という観点では、まだまだ多様なコンテクストを引き込むことができそうです。ちょっと考えてみようと思います。

また、「お金をあげる学校」というのは面白いですね。ちょうどこの春、多摩大学で非常勤講師をやるので、そこで教育の実践的な知見を得た上で、「ihayato.academy」でも開きたいと思います。毎月5万円、こちらが支払うアカデミー。まずは受講生は1名からです。




創作に取り組む人にかぎらず、がっつり刺激をもらえる一冊だと思います。これは時折読み返すことになりそう。