長らく抱きつづけている問題意識として、「平気で人のことを罵倒する人たちが絶えない」というものがあります。




誹謗中傷と批判の違い



まず、誹謗中傷と批判は違います。

批判というのは、相手への敬意を失わず、対等な立場で相手の意見に疑問を呈することです。さらにいえば、そこから新しい価値を生み出そうとすることです。

誹謗中傷は、相手への敬意を持たず、極端な上から目線、あるいは被害者意識に基づき、罵声を浴びせることです。それは批判ですらありません。

個人攻撃と批判の違いは、表面的にいえば「言葉遣いの問題」であり、より深く語るのなら「態度の問題」です。「バカ」「アホ」なんてことばが踊るのは間違いなく誹謗中傷であり、相手を全人格的に「分かったもの」と見なし、慇懃無礼な言葉遣いで見下そうとするのは、誹謗中傷です。




誹謗中傷を正当化するさまざまな理由



人はさまざまな理由で、野蛮な誹謗中傷を正当化します。

ツイッターでよく見かけるのは「つぶやきだから」という言い訳です。「つぶやき」という免罪符を用いて、自分の罵詈雑言を正当化するわけです。

あるときエゴサーチをしていたら、「イケダハヤトはバカじゃないの?」といったツイートをしている人を見かけたので、「面識のない人間をバカ呼ばわりするなんて無礼な人ですね」とツイートして差し上げました。

すると彼は「つぶやきのつもりで、つい気軽に投稿してしまいました。申し訳ありません」という丁重な謝罪を届けてくれました。あまりにも鈍感で動物的なその態度に辟易し、速攻ブロックしたのは言うまでもありません。




もう一つよく見かけるのは、「正義」の御名を背負う人たちです。

これはネトウヨが分かりやすいでしょう。彼らはそれが正義であると信じて、「在日」を叩きます。自分が差別を受けているという大義名分をもって、社会への復讐を行います。

在特会の主張には必ずといってよいほど「被害者である日本人」が盛り込まれる。だからこそ目的のためには、いかなる手段も浄化されると考えているのだ。

(本)安田浩一「ネットと愛国 在特会の闇を追いかけて」 - ihayato.書店 | ihayato.書店


厄介なのは、正義を執行する彼らには罪悪感が微塵もないことです。本気で世の中にいいことをしていると思って、気に入らない人間を「在日」と罵るわけです。歴史を振り返れば、こういう「正義漢」たちが魔女狩りをし、ホロコーストを行ったのでしょう。




もひとつおまけによく見かけるのは「愛のムチ」としての誹謗中傷。「おまえのために言ってるんだ」という親切心、親心で、公衆の面前で個人を罵倒するアレですね。

本当に「おまえのため」を思っているのなら、公衆の面前で批判すべきではありません。そうできないのなら、単純に相手を貶めたいだけであることを認めましょう。

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最後に、「ユーモア(面白さ)」を傘にして、第三者を公衆の面前で誹謗中傷する人もいます。ちょうど最近やりとりしている切り込み隊長は、ぼくの目にはそういう人間として映っています。

「罵倒芸」は非常に高度ですし、低俗な文化だと思うので、容易に手を出すべきではありません。子どもたちが「あいつを"いじる"と面白いから」という理由でいじめられる社会をぼくはつくりたくありません。

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「武装解除」をしたい



21世紀に生きるわれわれは、いい加減、こうした個人攻撃から身を引くべきです。どんな理由があれ、いきなり他者を罵倒するなんて、前時代的じゃないですか。そのナイフを振りかざす前に、本当に相手を攻撃する十分な理由があるのか、一度振り返ってみましょうよ。

そういう攻撃的な立ち振る舞いが醜悪であることは、理性をほんの少し働かせばわかるはずです。

「つぶやき」の免罪符を使うのはやめましょう。「カレー食った」とつぶやくことと「あいつはバカだ」とつぶやくことは、行為の意味が違います。




どんな相手にも敬意を持つというのは難しいことです。というか、原理的に無理でしょう。ぼくも軽蔑している人間がたくさんいます。

そういう場合でも、いや、そういう場合こそ、彼への軽蔑を口に出すのはやめましょう。相手を貶める以上の効果は何もありません。

しょせん、自分とは関係のない人間です。そもそも、自分の貴重な時間を割いてまで、相手の没落を「手助け」することはないのです。野放しにさせておけば、そのうち痛い目に遭い、自らの振る舞いを後悔することでしょう。そのくらいに考えておけば、争いは避けられます。




こう偉そうに書いているぼくも、人のことを言えるほど立派な振る舞いをしていません。ツイートを見れば個人攻撃の悪臭が漂っていることでしょう。何とか克己しようと努力しています。




ネットによって高まった攻撃性を冷却していくこと、いいかえれば、人々を「武装解除」していくことは、大げさではなく人類が進むべき道だとぼくは確信しています。

50年後、ぼくが老人になったとき、孫たちが「えーっ、おじいちゃんの時代って、バカとかアホとか公衆の面前で発言する人がいたの!?それって超野蛮じゃん!そういう人たちは自分が恥ずかしくないの??」と驚いてくれるような社会を望みます。