哲学者、中島氏の本が面白くてハマっています。こちらは特にエッジが立っていて、読んでいてハラハラドキドキワクワクする一冊。





「相手の気持ちを考えろよ!」



相手の気持ちを考えることは、じつはたいへん過酷なことです。いじめられる者は、相手の気持ちを考えるのならいじめる者の「楽しさ」も考えねばならない。(中略)ただただ憎悪と後悔で充たされ、もはや考えることもできないはず。そこを無理に考えようとすれば、反吐が出てきてまともな精神状態を保てないはず。

しかし、こう語る人は—怠惰にも狡いことに—こういう場面を想定してはいない。ここれは「相手」という言葉が、はじめから極度に限定した意味を担わされております。相手「一般」の気持ちではなく、「弱者」の気持ちを斟酌しろと言いたいのです。





「ひとりで生きてるんじゃないからな!」



こうのたまう人は一つだけ決定的に忘れていることがある。それは、他人とは育み助けるだけではない。同時に、私に介入し私を支配し私を金縛りにし私に危害を加える存在者でもあるということです。
(中略)
「ひとりで生きてるんじゃないからな!」という言葉には、感謝を要求するような響きがある。それも、孤独を好む人に向かって、そんなわがままじゃ生きていけないぞと諭すような響きがある。世の中もちつもたれつじゃないか、という響きがある。今は威勢がいいがあとで弱音を吐くなよ、という響きがある。私はこういう言葉を発する人の鈍感さ、しかもみずからをよしとするその傲慢さが嫌いなのです。






「おまえのためを思って言ってるんだぞ!」



ああ、この言葉はとりわけ虫酸が走るほど嫌いです。それは嘘だからであり、自分を守っているからであり、恩を着せているからであり、愛情を注いでいるとかんちがいしているからであり、つまり徹底的に鈍感でしかも狡いからです。
(中略)
こうした台詞は、常識的な価値観にがんじがらめに縛られている人から発せられることが多い。そんな無作法な態度では世間に出てからうまくいくはずがない。そんな自分勝手では人とぶつかるに違いない。今、勉強しなければあとで後悔するのだ。とかとか。
(中略)
「自分のために」、おまえにどうにか変わってもらいたい。つまり、もっと世間並みになり、世間の掟を尊重し、その枠の中に収まって欲しいのです。そうでなければ、「自分が」不安で不安でしかたない。
(中略)
ここには、そう語る当人が気づいていないたいへん傲慢な態度がある。つまり、そう語る人は「おまえのために」言ってやるその相手より人間として絶対的に上位にいるという傲慢です。(中略)おまえは低級人種だからおれが言って聴かせなければわからないが、おれは高級人種だからおまえなんぞに言われたくない、というわけ。
(中略)
「おれもほんとうはこんなこと言いたくないんだ。おれも辛いんだ。だがな、おまえから憎まれてもおまえのためを思って、これだけは言っておきたいんだ」とじゅんじゅんと教え諭す。こうして、あとから私や第三者から非難されたら、自分はすべて善意からしたのだという巧妙な逃げ道を作っておく。その自己防衛の巧みさ、つまりその根性の薄汚さが厭なのです。






「みんなが厭な気分になるじゃないか!」



これもお馴染みのお説教です。こう語る人は、自分が厭な気分になること、そして他人を厭な気分にさせることを何よりも恐れている。みんなで共謀して催眠術にかかった振りをしようともくろんでいるときに、鈍感な輩がそれを覚ますようなふとどきな振る舞いにおよぶと、「せっかくみんないい気分でいたのに、ぶちこわしだ」と来る。






「自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!」



これは無責任な教師や評論家が口から出まかせに言う言葉、誰でも知っているように大嘘です。各人に何か好きなことがかならず一つはあるはずだ、というのは大嘘です。その好きなこととは万引きや売春であってはいけないのですから、社会的に評価される、できれば職業と結びつくことでなければならないのですから、じつはきわめて制限されている。(中略)何か好きなこととは、何でもいいわけではないのです。このあたりがたいへん欺瞞的なのですが、そう言わないところが狡いのです。






…というわけで、非常にエキサイティング。いやー、僕も「おまえのためを思って言ってるんだぞ!」は頻繁に言われていた時期があるので、頷きまくりでした。尊敬する人物ならまだしも、誰だか知らないような人からいきなり言われたりすると、上から目線が鼻に付くんですよね。結局権威を振りかざしたいだけじゃないか、と。




中島氏は、徹底的に「世間」と戦い続けているアウトサイダーです。少しでもその要素がある方は、この本、かなり刺さると思います。僕はズバズバ来ました。