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いじめ問題が、(特にインターネット上の)「市民による断罪(私的制裁)」という新しい問題を生み出しているように感じます。悶々と考えていることをまとめてみます。




市民は制裁者になるべきか?



いじめの加害者に対する怒りは、誰しもが禁じ得ないとは思います。

しかしながら、「私たち市民」が、加害者を私的に制裁・断罪する(今回なら「加害者の実名や住所を暴く」)ことが許されるかどうかは、別の問題です。

常識的に考えれば、法治国家である日本において「私刑」は許されるものではありません。しかしこうした正論を前にしても、市民による「正義」の執行は止まることはないでしょう。




無意識的に「私刑」を行う私たち



また、市民社会に生きる上で「断罪」とは無縁であることはできません。僕を含めて、私たちのほとんどは、ある人が「殺人の前科がある」と聞いただけで、その人と距離を置こうとします。それは刑を終えた人間に対する、ある種の「断罪」ともいえるでしょう。

例えば、「前科者」に対して、私たちは無意識的に「私刑」を行っているのです。法律の話は詳しくないのですが、刑罰というものはそうした「私刑」を考慮して軽重が決められているようにも思います。

法的には罪として見なされないこと、例えばマルチ商法、新興宗教、合法ドラッグ、そうしたことに対しても、私たち市民は無意識的に「私刑」を行っています。それによって、社会の秩序や美徳は保たれている側面もあるでしょう。




何のための制裁?



そうした私的な制裁がいったい何のために行われているか、という点を考えることは、議論のきっかけを提供してくれるでしょう(「これからの「正義」の話をしよう」では「目的(テロス)に立ち返れ」と書かれていますね)。

新興宗教、マルチ商法、合法ドラッグに対する私的制裁は「社会の秩序を守るため」かもしれません。

では、いじめ加害者に対する私的制裁は、何のために行われているのでしょうか。言い換えれば、「誰のため」に行われているのでしょうか。




その答えは制裁者本人によって変わってくるでしょう。「報われない被害者のため」と答える人もいれば、率直に「自分の行きどころのない怒りを消化するため」と答える人もいるはずです。多くの場合、その両方がブレンドされたものかもしれません。




本当に「報われない被害者」のことを思うのなら、違ったアプローチもあり得る、ということも重要です。

例えば残虐な少年犯罪に憤った奥野修司氏は「心にナイフをしのばせて」というルポルタージュで、「少年法の問題点」と「被害者救済の必要性」を社会に訴え、変化を起こしました。

奥野氏は「報われない被害者のことを思って」犯人の実名を暴き、断罪することができたかも知れませんが、それは決して行いませんでした。

本当に変化を望むのなら、短期的な「断罪」は何も変えないどころか、かえって悪影響を与える可能性すらあると思います(いじめ問題でいえば「自殺のインセンティブが増えてしまった」という指摘もなされています)。




いじめの問題に限らず、インターネットは私的な制裁で溢れています。

元来匿名性を持っていることに加え、ソーシャルメディアによって人々が繋がることができるようになったため、原始的な制裁が容易になったのでしょう。

私的制裁に価値がある場合もあれば、えん罪など、新しい問題を生み出す恐れもあります。僕も明確な答えは出せていませんが、「私的制裁」というテーマについて、考えるべきタイミングなのではないかと思います。