もやっとすることがあるんですよねぇ。


ぼくは読者のみなさまの知性を信頼しています

文章を書いているとですね、「こんなこと書いて、誰かの人生に悪影響を与えてしまったらどうしよう」という「迷い」が生じたりします。

たとえばぼくの場合は、再三「ぼくは会社を辞めてハッピーになりました。プロブロガーは大変ですが、本気でやりたい人はやってみるといいですよ」と書いています。

で、こういうことを書くと、「バカな若者がイケダハヤトに煽られて会社辞めて人生をダメにしたらどうするんだ!」というフォーマットの批判が来ます。もはや伝統芸能レベルですね。


が!ぼくはそんな「バカな若者」は読者にいないと考えていますし、実際に、「イケダさんのブログに影響を受けて人生に失敗した!責任とってください!」という人がぼくの元に訪れたこともありません。

読者のみなさんは、ぼくが個人的な意見を発信しているだけだ、ということをしっかりと読み取ってくれています。あくまでここに書かれている意見は、「イケダハヤト」個人のものにすぎず、大本営発表でも神の言葉でもないことは、読めばわかる話です。


ぼくは読者の知性を強く信頼しています。みなさんは賢明ですから、ぼくの言葉に振り回された挙げ句、人生を失敗した!とぼくに責任をなすり付けるようなことはしません。

無論、ぼくの方でも可能なかぎり、人生に良い影響を与えるような情報を発信しつづけるようにしています。それはブロガーとして生き抜く上で必須です。


ぼくが冒険的な文章を執筆できるのは、読者のみなさんを信頼しているからです。ぼくがもしも「変なこと」を書いても、みなさんはそれが「変なこと」であることを、理解してくださると期待しています。だから、ぼくは一歩踏み込んだ表現ができるのです。

読者の知性を信頼していないブロガーの文章というのは、責任逃れのエクスキューズ(「私は個人的には、そう思うかもしれません…」的な弱腰語法)や、懸念リスクにまつわる記載がたっぷりつまった「過剰にフールプルーフ」な文章になります。


読者の愚かさを前提にした文章は、一見すると「優しく、配慮された」ようにみえますが、それは得てして作品としては「つまらない」ものになります。作品の当事者であることから逃げている、責任逃れの文章だからです。本当にエッジを切り開くような表現は、受け手を強く信頼し、矢面に立とうと決意したときに発現するのです。


さらにいえば、書き手が読み手の知性を信頼しない状態では、言論空間の質が劣化していきます。すべての書き手にはリスク特記事項の入念な記載が求められ、それを忘れたが最後、「愚か者がお前の文章を読んで、誤解したらどうするんだ!」と罵られることになります。

そんな状況ではいいものが出てくるわけがありません。大企業の製品とか、民放のテレビ番組とかは、だいたいそんな感じで作られているとも思います。


関連本。知性を信頼した文章には、いい知れぬ魅力と歯ごたえがあります。池田晶子氏の文章は、その意味で不朽の作品だと思います。