これはひどいですね。すでに乙武洋匡さんが丁寧な反論を書かれていますが、ぼくも書いておきます。


話の流れを整理

話の流れとしては、

①鈴木宗男さんがベビーシッター事件について、「親にも責任がある」と取れる文章をアップ。

報道で知る限り母親とベビーシッターの男は面識もなく簡単にインターネットでのやり取りである。母親として見ず知らずの人に預けた場合、安全性とか誘拐とか頭になかったのだろうか。親として無責任な面があったのではと思うのは私だけだろうか。

3月18日(火)ムネオ日記

②。乙武さん、駒崎さんがツイッターで「政治家による母親叩き」だと反論。

③。これに答えて鈴木宗男さんがもう一度ブログ記事をアップ。以下2点の問いかけ・意見を提示します。

乙武氏と駒崎氏に言いたい。「あなた方は見ず知らずの人に自分の子供をなんの懸念も心配もせず預けますか」と。

子供は宝であり、かけがえのない存在である。にもかかわらず2歳としかももう一人8ヶ月の子供を3日間も預けるなら身元やベビーシッターとしての信用等、念には念を入れて預けるのが普通で、どの親でも考えるのが当たり前でないか。

(中略)乙武氏と駒崎氏に言いたい。ツイッターとかではなく、顔を合わせて平場で話をしようではないか。無責任な評論家的な話は懲り懲りである。「親としての責任」「人の道」が問われる問題だ。

3月20日(木)ムネオ日記

④。で、乙武さんがものすごく丁寧な反論を書かれています。

 また、貴殿は「あなた方は見ず知らずの人に自分の子供をなんの懸念も心配もせず預けますか」と問われていますが、事件の被害者となった母親は「なんの懸念も心配もせず」わが子を預けたとお考えなのでしょうか。もし、そうだとしたら、その浅慮に驚き、あきれます。

鈴木宗男氏への回答「政治家だからこそ、弱者への心配りを」

ここまでが流れの整理で、ここからはぼくの意見。


「事件に巻き込まれた母親は無責任である」という暴力的な批判

全面的に乙武さんの意見に同意します。その上で、もっとも違和感があるのは、鈴木宗男さんが今回の事件に巻き込まれた母親について、「親の愛、親としての基本が欠如している」と読める文章を書いている点。

それ以前の問題として親としての心構え、親としてのあり様、なによりも親として自分のお腹を痛めた子供に対する愛情を持つことである。その基本が大事ではないかと私は言っているのである。

(中略)今になって母親が「前に預けた時もあざがあった」とか言っているが、それならば尚更ベビーシッターの信用度や身元を確認するのが第一ではなかったのかと思うことに何の間違いがあるだろうか。

3月20日(木)ムネオ日記

控えめに読んでも、「親の愛は大切である」という一般論を超えて、「事件に巻き込まれた母親は無責任である」という個人批判にまで食い込んでいるように受け止められます。犯罪被害者に鞭打つ、たいへん暴力的な意見です。


市民の暴力性を喚起している

知名度の高い政治家がこのような個人批判を繰り出すことは、危険きわまりないことです。なぜなら、他の市民に、同じく母親を攻撃する理由を与えてしまうからです

「私のところには「鈴木さんの受け止めは当然です」と多くの人から声が寄せられている」とご自身で報告しているように、鈴木さんに同調して、自己責任を押しつけようとする人々も登場しているようです。なびきやすい市民の攻撃的感情に火を注いでいることに、鈴木さんはどこまで自覚的であるのでしょうか。


弱者がさらに自己責任に追い立てられる

「インターネットで見ず知らずの人に簡単に自分の子供、しかも2歳と8ヶ月という幼い子を預ける母親の神経も首を傾げざるを得ない」という価値観が浸透していけば、こういった劣悪なサービスを頼らざるを得ない、金銭的、時間的、社会的資源に欠ける弱者は、さらに追い立てられることになります。

ちょうど「生活保護は恥だから」といって生活保護を利用することを避ける生活困窮者のように、子育てに困っている人ほど、「自分でなんとかしないといけない」と「親の愛」を発揮して、孤立していく可能性があります。無論、世の中にはそうした孤立を順調に乗り切れる人ばかりではありません。


制度的支援が不十分になる

鈴木さんは法整備の必要性についても言及していますが、自己責任を唱えるかぎり、制度としての包摂性は薄弱になります。

「自己責任であるべきだ」という価値観が強ければ強いほど、何か問題があった際に「この件に関しては、親が無責任なだけだから、社会としては放置していい」という結論になびきやすくなります。本当は制度的な不備があるのにも関わらず、自己責任で話が完結してしまいます。

様々な困難を抱える親と子を包摂する制度をつくるためには、「自己責任」という力学を極力排除していくべきです。日本は世界的に見ても、子どもの貧困率が高く、少子化に喘いでいる国なわけですから、せめて親子の問題だけでも「社会に責任がある」というスタンスを強めていくべきでしょう


無責任だったら何なの?

そもそも、今回の件で「親として無責任であるか否か」を、誰がどのようにして判断できるのでしょうか。ネットとテレビの情報だけで、無責任か否かを判断できるのでしょうか。

さらに、情報が出そろって、その上で「親として無責任である」と判断された場合、一体母親は、どのように社会から扱われるのでしょうか。子どもを失った母親は、「親として無責任だ」と判断されたら、どうなるんでしょうか。

「母親にも責任がある」…だから何なんでしょう?
続く言葉は「私には責任がない」でしょうか。それはおかしいです。社会の一員である私たちにも、責任の一端はあるわけですから。政治家がこのような発言をすると、市民としての社会的責任を取らない大人が増えていくと思われます。


無知を知るべき

市民として他者の倫理的判断の是非に言及するのは、最低限にとどめるべきです。ほとんどの場合、個別の事情は明らかになりませんし、「無責任である!」と断罪したところで、弱者がさらに鞭打たれるだけであって、前に進みません。

他者の事情や内心を完璧に理解・想像することなんてできないわけですから、「今回の件は母親に責任がある」「母親に責任はない」などといった議論をしても無駄です。それはどこまでいっても「浅慮」の域を出ません。実際、ぼくは「無責任であるか否か」はよくわからないので言及できません。

というか、母親の責任のあるなしなんぞ、どうでもいいわけです。そんなことより、リアルに困っている親たちがまだまだ大勢いる上に、制度的な不備が明らかになっているわけですから、さっさと現実的な問題解決に取り組んでいくべきです。


百害あって一利なし

というわけで上記の理由から、厳しい言葉でいえば、鈴木宗男さんのような自己責任をなすり付ける意見は、「百害あって一利なし」といえるでしょう。ホント、この種の意見って、何か社会にとっていいことあるんですかね。

  • 被害者に鞭打つことになる
  • 市民の暴力的感情を煽り立てる
  • 「親の愛」「責任感」のある社会的弱者が、社会を頼らず、孤立に追いやられる
  • 制度的支援が不十分になる
  • 社会的責任を取ろうとしない市民を増やす
  • 己の無知に気付かない市民を増やす

よりざっくりとした感想を述べると、政治家がこんな発言をしていれば、そりゃ少子化にもなるよなぁ、という感じです。

鈴木宗男さんはもっとマイノリティの立場を大切にする政治家だと思っていたのですが、これじゃ「生活保護バッシング」の片山さつき氏と変わらないですね…。