諦める力~勝てないのは努力が足りないからじゃない[Kindle版]

為末 大 プレジデント社 2013-06-06
売り上げランキング : 2656
by ヨメレバ

これはすばらしい。為末さんは個人的に大好きなのですが、この本は特にツボです。もっと早く読んでおきたかった…。読書メモを残しておきます。

他にも記事を書いているのでぜひ。
「頑張る」人は一流になれない


勝てないのは努力が足りないからじゃない

・「諦める」という言葉の語源は、「明らめる」だという。仏教では、真理や道理を明らかにしてよく見きわめるという意味で使われ、むしろポジティブなイメージを持つ言葉だという。

・ジュニアといえど、世界レベルになると9秒台に近いタイムで選手たちは走る。この衝撃は大きかった。僕は、このときはじめて「努力しても100メートルでトップに立つのは無理かもしれない」という感覚を味わった。高校三年生までは「頑張れば夢は叶う」という意識で行きてきた。

・「100メートルでメダルを取るよりも、400メートルハードルの方がずっと楽に取れるのではないか」。にもかかわらず、100メートルでも400メートルでも、つまりラクを使用が苦労しようが、金メダルは金メダルである。僕は次第に講考えるようになった。「これだったら、400メートルハードルでメダルを狙うほうが、100メートルで狙うよりよほど現実味がある。」

・今の僕にとって、何かを「やめる」ことは「選ぶ」こと、「決める」ことに近い。もっと若いころは、「やめる」ことは「諦める」こと、「逃げる」ことだった。そのように定義するとどうしても自分を責めてしまう。

・誤解のないように言っておくが、僕は400メートルハードルをやりたかったから100メートルを諦めたわけではない。はじめて世界の部隊を見て、ここで勝手みたいと思ったのだ。しかし100メートルにこだわっているかぎり、それは絶対に無理だと思われた。

・「勝つことを諦めたくない」。そう、僕は「AがやりたいからBを諦めるという選択」をしたにすぎない。

・多くの人は、手段を諦めることが諦めだと思っている。だが、目的さえ諦めなければ、手段は変えてもいいのではないだろうか。(中略)陸上界で最も「勝ちにくい」100メートルを諦めて、僕にとって「勝ちやすい」400メートルハードルにフィールドを変えたのは、僕が最も執着する勝利という目的を達成するために「必要だった」と納得できたからだ。

・「勝ちやすい」ところを見きわめるこうした考えを表明することは、今の日本ではリスクが大きい。「私がこの種目を選んだのは、勝ちやすいからです」。そんなことを言おうものなら、世間の人は言うだろう。「動機が不純だ」。

・僕はルイスの走る姿を生で見たことがある。そのときの率直な感想は「自分の延長線上にルイスがいる気がまったくしない」というものだった。僕がいくらがんばっても、ルイスにはなれない。

・可能性がなくなっていくと聞くと抵抗感を示す人もいるけれど、何かに秀でるには能力の絞り込みが必須で、どんな可能性もあるという状態は、何にも特化できていない状態でもあるのだ。できないことの数が増えるだけ、できることがより深くなる。

・戦略とは、トレードオフである。つまり、諦めとセットで考えるべきものだ。だめなものはだめ、無理なものは無理。そう認めたうえで、自分の強い部分をどのように生かしてかつかということを見きわめる。

・一生懸命やったら見返りがある、という考え方は、犠牲の対価が成功、という勘違いを生む。すべての成功者が苦労して犠牲を払っているわけではなく、運がよかったり要領がよかったりして成功した人の方が実際は多いのではないだろうか。

・僕も経験があるからよくわかるのだが、長くやりつづけることは賞賛されることはあっても、批判されることはまずない。周囲も「諦めないでがんばって」と応援してくれるので、それに勇気づけられてがんばってしまう。

・人間は本気で挑んだときに、自分の範囲を知る。手加減して飛べば本当はどのくらい飛べたのかがわからない。だからいつも全力でやってほしいと子どもたちに言っている。(中略)全力で試してみた経験が少ない人は、「自分ができる範囲」について体感値がない。

・成功する確率の低い若者には「きみは、この先に進んでも成功するのは無理だよ」と言ってあげる大人が必要なのではないだろうか。「きみが成功する確率は万馬券並だ。だから今の競技は諦めて、こっちに進んでみたらどうだろう。僕はきみがこっちに向いていると思うよ」。

・何にでも意味を見いだそうとしすぎる人も増えたように思う。イチロー選手が毎日カレーを食べていたところで、好きだという以外の理由はおそらくないだろう。

・日本人は全力を尽くして全うするという考え方が強い。しかも、辞め方は万人に納得してもらえるような美しさがなければならないと思い込んでいる。

・「勝てなくて申し訳ないと思っている」。僕はこの言い方に強い違和感を覚える。金メダルを取るために毎日身を削るような努力を重ねてきた選手は、力を出し切れなかったとしても誰からも責められるいわれはない。

・僕という存在は、僕に今までさまざまな影響を与えたものの集合体であるという感じが抜けない。自分に影響を与えたものについて考える自分自身が、すでに何かに影響を受けてしまっている。確かな自分はどこにもない。だからこそなるべく論理的であろうとするのだけれど、確固たる自分がいないのだから、結局仮決めの自分が仮決めの答えを出しているにすぎない。自分さえこんなに不確かなのだ。そういう人間が寄り集まっている世間そのものが不確かだ。だから不安だとか、空しいというの人もいるかもしれないが、僕は、だからこそ何をやってもリスクがないように思えて冒険しやすいと感じる。

・今の僕には「勘にゆだねる感覚」のようなものがある。要は意識的に考えようとする自分を制御して身体に判断させる感覚だ。この感覚がない人は運動を修正する能力が限定される。(中略)「あの人はすごい」と言われるような人は。無意識と意識のバランスが普通の人に比べて格段にいいように見える。

・人間の脳には意識できる領域以外にも記憶があって、僕はそれが勘と呼ばれるものではないかと思っている。自分でも気付かない、これまでの経験や情報の蓄積が無意識の領域で結びつき、「何となく」という感覚で私たちの意識の領域に現れる。

・ほとんどの人にとっては、つらい時期を耐え抜いても成功しないことが多いのだ。現実には10人のうち9人が成功せず、たった一人だけうまくいった人が、自分のロジックで語っているにすぎない。「苦しい時期を耐えたら、必ず結果は出ますか」。スポーツにこんなアンケートを取ったとしても、おそらく90%は「出ないときもあった」と答えるだろう。

・成長と成功は違う。この違いに気付かないふりをする罪は大きいと思う。

・「別の方向に進める可能性もあるが、あえて今はアスリートをやっている」人は、いい加減な気持ちでやっているわけではなく、ある意味で肩の力が抜けている。勝つために全力を尽くすが、負けたからといって精神的に行き詰まらない。

・勉強でもスポーツでも趣味でも何でもかまわないから、没頭し、必死に努力するという体験をしたほうがいい。そうすれば「がんばってもうまくいかない」「あまりがんばらなくてもけっこういける」という感覚が得られるはずである。これが大事なのだ。長期的には「あまりがんばらなくてもなんとなくできてしまう」ことのほうに努力を振り向けた方が成長できる。

・努力には、「どれだけ」がんばるか以外に、「何を」がんばるか、「どう」がんばるか、という方向性があるということだ。日本では指導者が、何をがんばるか、どうがんばるかまで決めてくれることが多い。

・「陸上なんて、いつやめたっていいのよ」。僕が真剣に取り組んでいる最中にも、母のスタンスは変わらなかった。

・僕が100メートルをやめて400メートルハードルに移ろうとしたとき、もし母がこう言っていたらどうなっていただろうか。「まだ18歳なんだからわからないわよ」「もうちょっとがんばってみたら?」おそらく、若い僕はあの時点で100メートルをやめずに、もう少しやってみようという気になっていたかもしれない。そして、上がる見込みのないランキングに四苦八苦するうち、陸上に対する情熱を失い、勝つことに対する意欲も失っていたかもしれない。

・清盛の時代の日本の人口は、現在の1億3000万人からすると約20分の1以下の500万人から600万人である。単純に確率だけで考えると、天下を取るのは現在に比べたら簡単だったのかもしれない。

・スタープレーヤーは、努力を努力と思わず、努力そのものが楽しいという星の下に生まれてきていることがほとんどだ。才能があると思えているところからスタートしている努力と、自分にはまったく才能がないとしか思えないところからスタートしている努力は、苦しさがまったく違うのではないだろうか。

・あなたにとっての苦役は、あの人にとっての娯楽。

・苦痛のなかで努力しているときは「がんばった」という感覚が強くなる。それがこころの支えにもなる。ただ、がんばったという満足感と成果とは別物だ。さほどがんばらなくてもできてしまうことは何か。今まで以上にがんばっているのにできなくなったのはなぜか。そういうことを折に触れて自分に問うことで、何かをやめたり、変えたりするタイミングというのはおのずとわかってくるものだと思う。

・どんなに恵まれている人でも、自他ともにオンリーワンと言い切れるほど特徴がある人間なんてほとんどいあにから、「あなたはあなたのままでいい」という言葉を疑いなく受け入れられるほどの自己肯定感は、「社会皮から自分は一切認められなくてもいい」という諦めと一体なのだ。僕は人間なんてみんな一緒で個性なんてないのだから、何者かになる必要なんてないといわれたほうがほっとする。

・僕は、何かを決断するために必要なアドバイスは、多くても5、6人からもらえば十分だと思っている。身近で信用している人のアドバイスだとしても、間違っている可能性はある。アドバイスは、どこまでいってもアドバイスの域を超えないのだ。

・「自分はこのくらいの者だ」という感覚が洗練されていないと、たまたまうまくいっていることや、たまたまうまくいっていないことが「すべて」だと思ってしまう。世の中の評価は移ろいやすく、褒めてくれていた人が手のひらを返したように冷たくなったり、貶めていた人がいつのまにか持ち上げてくれていたりと、自分ではコントロールできない。だからこそ、自分の中に軸を持つことが大事なのだ。

・人々を"平等原理主義"に駆り立てるのは何だろうか。僕は「かわいそう」と「羨ましい」の感覚だと思っている。自分を基準にして「自分より不幸でかわいそう」な人たちを救うべきだと考える一方で、「自分たちよりいい思いをしていて羨ましい」人たちからはもっと取るべきだと考えるのだ。ここでいう「かわいそう」は他者を引き上げる圧力で、「羨ましい」は他者引き下げる圧力だ。(中略)多くの人が考える一番のセーフティゾーンが「みんなといっしょ」というところになると、社会に活力がなくなるのではないかと思う。

・「可能性は無限だ」。こういう考え方を完全に否定するつもりはないけれど、だめなものはだめ、というのもひとつの優しさである。自分は、どこまでいっても自分にしかなれないのである。それに気づくと、やがて自分に合うものが見えてくる。

いやー、ホントすばらしい!これは人生を変えてくれる一冊ですね。淡々と、かつ全力でブログを更新していきたいと思わせられました。

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